ばびんの柩の部屋


「コペルニクスの卵」



 冷蔵庫の無精卵 腐りかけている 閉切られた暗闇の中で

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 「もうチャンスはないよ」友人は憎たらしい口調でそう言った。

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 そこのドレッシングこっちによこしてよ。
 六畳の和室のモルタル造りの壁に掛けられている時計は丁度十二時を指している。全く正午に昼ご飯が食卓に乗っているなんて奇跡的なことだ。いつもならあと三時間は出てこないのだが、今日はどうしてだろうか。三時にお菓子代わりの昼食なんて意味不明ではあるけど、サイクルがシステム化して日常になっていたから、正午のご飯はそれこそお菓子みたいなものに感じられる。彼女は普段は絶対に歌わない鼻歌を歌いながら朝早起きをして、朝食を食べ、普通は絶対にしない洗濯をして、いつもなら三時の昼ご飯を十一時四十五分に作り上げて、今はドレッシングを取ってくれた。だけど理由が分からない。今日は彼女の誕生日ではない。今日は付き合い始めた記念日ではない。今日は僕の誕生日ではない。今日はクリスマスではない。今日は…。
「どう?」
 今は夏だからシンプルなサラダとサーモンとナスの炒めパスタとオレンジジュースとブルーベリーショートが乗っているコタツには布団がない。反対がわにいる彼女はパスタを口に運んでいる僕を覗きこんで感想を聞いた。悪くない、と僕は答えたがむしろ喝采を叫びたいほどにそのパスタは美味しかった。奇跡的な味だ。無愛想な僕の答えに彼女は気分を害した様子もなく、何か音楽かけようよ、とコンポに山崎まさよしのアルバムを入れて再生した。彼女はそのアルバムを好んで聞いたが、コペルニクスの卵だけはとばして聞くのだった。彼女はその曲を嫌っているのだ。だから僕はその曲を一度も聞いたことがない。別に聞きたいとも思わないがなぜ彼女がその曲だけを嫌がるのかは少しだけ知りたい。

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「何でかなんて聞くなよ。知ってもしょうがないだろ」友人は憎たらしい口調でそう言った。

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 彼女と初めて会ったのは病院でだった。彼女は入院していた。

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 時計は一時を指している。コタツの上の食器は全部キッチンに下げられて、僕は二杯目のオレンジジュースをちびちびと飲んでいる。彼女は手際良く食器を洗うと、僕の前に座って、海に行きたいと言い出した。
「今は有名なビーチはどこも人でいっぱいだよ」
「人が少ないところにいきたいの。有名なところじゃないほうがいいわ」
「泳ぐのか?」
「ううん、見るだけ」
「少し、時間がかかるぞ」
「渋滞は覚悟の上よ」
 彼女が海に行きたいなんて言い出したのはこれが初めてだった。僕は車のキーをサイドボードの上のバスケットから拾い上げて、じゃあ行くか、と彼女を見た。彼女は僕の残したジュースを飲み干していた。

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「ふふん、おまえは一体俺から何を聞き出そうとしてるんだ?」友人は憎たらしい口調でそう言った。

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 予想通り海岸沿いの道路は酷い渋滞だった。セリカの車内はクーラーが効いていたがそれでも窓から侵入してくる日差しが肌を焼いた。隣に座っている彼女は目を細めながら、肌の露出している部分に日焼け止めのクリームを塗り、時計を気にしている。時間は二時一五分だ。
「日が沈むところを見たいのか?」
「ええ」
「大丈夫、それまでには着くよ」
 ラジオをオンにして、僕はボリュームを調整した。ラジオからは各高速道路の渋滞情報が舌足らずのアナウンサで聞こえてくる。そのアナウンスに重なるようにしてツクツクボウシの鳴き声が耳に入った。
「ずいぶん近くで聞こえるな」
「あ、フロントガラスの上の方。ほら、ここに止まってる」
「本当だ、だけどよくそんなところに止まっていられるな。滑らないのかな」
「さあ、何か足場になるようなところがあるのかもね」
 車は渋滞で動かないが、走り始めたら飛ぶだろう、と思ったが、ツクツクボウ
シの鳴き声が耳についたので、僕はフロントガラスの裏側から、蝉の腹をつつい
た。
「やめて!」
 彼女のその声に僕は酷く驚いた。そして暫くの間、彼女が何を止めてと言ったのかわからなかった。それが蝉のことだと気付いたのは車が動き始めてからである。ツクツクボウシは何時の間にかどこかへ飛んで行ってしまっていた。
 彼女は叫んだ後も、何かを呟いていたようだったが、それはラジオの音にかき消されて聞き取れなかった。
 一体どうしたのか、と僕は聞きたかったが、結局聞かなかった。僕らが付き合う時に、彼女は条件として、私の両親のことは聞かないで、と言ったが、そのことに関係あるのかもしれなかったからである。

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「何を知りたいんだ?」友人は憎たらしい口調でそう言った。

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 海は穏やかで、とても澄んでいるとは言えなかったが、奇麗だった。日没までにはまだ少し時間があったので、僕たちは水辺で少しの間遊ぶことにした。海岸に人は、僕たちを除いて一人もいない。風は全くなかった。彼女はミニをはいていたが、風が強かったらおさえるのに大変だっただろうと、いらぬ心配をする。彼女は靴と靴下を脱いで、波の上を歩いている。時々こっちを振り返っては、手を振る。僕も靴と靴下を脱いで、彼女のところへ向い、二人で笑いながら波から逃げたりした。
「きもちいい」
「童心に返った気分ってやつかい?」
「さあ、童心に返ったら、服のまま海に飛び込むと思うけど」
「ここに来たことがあるのか?」
「夕焼けが奇麗ね。そろそろ日が沈むわ」
「どうしてわざわざここに夕日を見に来たんだい?」
「今日はね・・・」
「え?」
「今日はね、私が一年前に病院から退院した日なの」
「ああ、それで・・・」
「今日で別れましょう」彼女は夕焼けを見ながら言った。そのあとも僕のほうを見ようとはしない。僕にはなぜそんなことを言われたのか分からなかった。え、と聞き返したが、彼女は同じ言葉をもう一度言っただけで、やはり僕を見ようとしなかった。
「なんでだ?」
「理由は言いたくない」
「僕のことはまだ好きなのか?」
「それも言いたくない」
「また逢えるのか?」
「わからない」
 彼女は結局こちらを向かなかった。日が落ちるまで。

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「おまえの知りたがってることは知っているさ。彼女が言わなかったことを聞きたいのか? しょうがない奴だな。いいよ、教えてやるよ」友人は憎たらしい口調でそう言った。
 僕は黙って続きを待った。そこは僕と彼女が日没を見た海岸から車で十分ほどのところにあるバーの中で、僕と友人はカウンタに座っていた。マスターは今、奥に引っ込んでいた。僕の手前にはバーボンがストレートで置かれていて、友人はスイートドラゴンを飲んでいる。
「おまえが俺に会いに来たってことは、ある程度予測がついてるんだろ? 彼女が入院していた病院で、俺は働いていたからな」
「いや、僕はいろいろ考えたが、結局分からなかった。何で彼女が僕と別れたのか」
「違うな」
「そう、違う。僕が分からなかったのは、彼女が僕と別れた理由ではなくて、そうせざるを得なかった理由だ」
「それで彼女の入院していた病院を思い出した」
「彼女が僕と別れるのにあの日を選んだのはそれなりの理由があったからだろう。その理由が知りたい」
「彼女は嫌っていただろう」
「曲のことか?」
「曲か。あとは卵とかな」
「卵? 確か彼女が嫌っていた曲も、コペルニクスの卵とかいったけど」
「なるほど」
「一体なんなんだ?」
「彼女はな、一年間だけ退院したのさ。その間だけ自由に過ごすことを許されたんだ。もっともそれも実験のうちだったんだけどね。彼女も承知していたんじゃないかな」
「実験?」
「彼女は、クローンなんだよ」

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「あのね、私達が付き合うのに条件があるの」
「なんだい」
「私の両親のことについては絶対聞かないでくれる?」
「いいよ」

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「やめて!」
「え?」
「蝉は何年も地面の中で過ごして、少しの間だけ地上にでてくるのよ。うるさいからって追い払わないでよ」
彼女は叫んだ後も、何かを呟いていたみたいだったが、それはラジオの音にかき
消されて聞こえなかった。

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「その実験とやらはいつ終わるんだ」
 僕は自分が怒っていることに気付いていた。何に対してか。
「わからないね。彼女自身、知らないだろう」
 友人に対してではない。自分に対してではない。
「どうにか」
「ならないね。俺ももう廃棄処分された身だ。情報ももう入って来ない」
 病院と、彼女に対してだ。

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「どう?」
「悪くない」
「何か音楽かけようよ」
 彼女はそのアルバムを好んで聞いたが、コペルニクスの卵だけはとばして聞くのだった。彼女はその曲を嫌っているのだ。

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「もうチャンスはないよ。きっとね」友人は憎たらしい口調でそう言った。

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 冷蔵庫の無精卵 腐りかけている 閉切られた暗闇の中で

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 事情を知ってから五年が経つが、僕は彼女と再会していない。


          了



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