「永遠に吸血鬼のそばに」

――――柩――――



 吸血鬼の家に、それと知っていつのまにか住みついている、まだ六、七歳の少年は、傍ら に座って優雅に紅茶を飲んでいる吸血鬼から、隠すようにして、少しばかり背の高いテーブルの上で、手紙を書いているようだった。吸血鬼が時々紅茶をすする音と、テーブルにペンが当たって鳴るコツコツという響きだけが、部屋の中に存在している。少年は、テーブルの上の燭台に灯る火で明かりを取り、何かを無心に記し続ける。外は昼で、特注で作らせた分厚く真っ黒いカーテンの向こう側には太陽の容赦ない光線が満ち満ちているはずだったが、吸血鬼にとってそれは天敵だから、部屋の中には蝋燭の光しかない。にんにくや十字架など、比較にならない。にんにくや十字架で死ぬことはないが、太陽にあたれば吸血鬼は灰になる。吸血鬼は不老不死と言われるが、そうして考えてみると、不老ではあっても不死ではないようだ。もっとも、吸血鬼に噛みつかれた時点で一度は死ぬのだから、その後の転生は生ではないということもできるだろう。
「なぁ、マリアねえちゃん、手紙送ろうと思ったらば、封筒に入れてどうすればええ?」
 少年はにかっと笑い、吸血鬼の顔を見た。少年は吸血鬼ではない、彼の笑いの奥には、吸血鬼を象徴する二つの牙がない。
 紅茶をカップの底に一センチだけ残して、女性の吸血鬼は、真白な服の袖を、ながすぎるのか少し手繰り上げて、少年に言う。
「誰に手紙を出すのです? 少しだけわたしに見せてごらん」
 にこにこしていた少年は、一瞬目を見開いて、一瞬後には顔を真っ赤にしていた。
「い、いやっ、ねえちゃんにもこれは見せられねぇ」
「あっ、ラブレターなんだなぁ、こいつ。封筒にはね、あと切手を貼らなければいけないんですよ」
 くすくす、と笑いながら、彼女は顔を真っ赤にしながらこっちを真っ直ぐ見ている少年を、微笑ましい、と思う。
「分かったっ。じゃあ、ぼくはちょっと出かけて来るさ」
「アル。切手はどこに売ってるの?」
 部屋を出て行きかけた少年は、ふと立ち止まって、頭を掻きながら、へへ、と笑い、分からないや、と言った。
「郵便局よ。前の道を右に真っ直ぐ、一番大きい交差点まで行って、そこを左に行きなさい」
 それを聞くと、すぐにアルは部屋を出て行き、そのドアを慎重にぴたりと閉めると、どたどた、と廊下をかけて行き、表玄関につくと、内側から扉の鍵を開け、扉を押し開いた。
 扉から、吸血鬼のいる部屋までは十メートル程離れていたが、それでも光はドアの下のほんの隙間から侵入してきた。それはいつものことなのだが、椅子に座って残りの紅茶を飲んでいたマリアは、さっと、袖で顔を隠した。光の侵入してくる一瞬だけでも、恐怖を呼ぶ。
 しかし、今日のその一瞬は、長かった。恐怖の一瞬は長く感じると言うが、そのような種類の長さではないのは明らかだった。玄関の扉が開いたままなのだ。マリアの息が徐々に速くなりはじめる。額から汗が流れ出る。アルは扉を閉め忘れたのだろうか、と考えて、それを打ち消す。アルはよくものを忘れるけれど、扉を閉め忘れることはない。
 玄関のところから何か音が聞こえた。どうやら話し声のようだ。少年の変な訛りの言葉がマリアの耳にかろうじて届く。何かを話し、アルが、早く扉を閉めてよっ、と叫んでいるのが聞こえた。するとすぐに光の恐怖が止んだ。先ほどまでドアの下から侵入してきていた光の影は、もうない。ほ、と安堵のため息をついた吸血鬼。
玄関からアルの声が聞こえた。
「マリアねえちゃんっ、また、診療してくれって客が来てるよっ。そっちに連れていくね」 がちゃりと、今度は扉の鍵を閉める音。アルとその他二人の足音が、だんだん部屋に近づいて来て、部屋のドアが開く。アルの連れてきたお客の一人は背の高い、がたいの良い、男性である。もう一人はその腕に抱かれている、少女だ。男性の娘だろうか。がたいの良い男は、部屋の暗さにずいぶん驚いているようだ。
 このひと、とアルは男を指差して、この子のお父さんだって。アルは続ける。
「昨日から様子がおかしんだって、この子の名前はミシェル。このおっちゃんはダニー」
 ミシェルを抱えたまま、ダニーはマリアと握手をしようとしたが、少女が落ちそうになったので、止めて、よろしくお願いします、と日本風にお辞儀をした。
「あの、ここで診るのでしょうか」
 男は中を見渡してそういった。
「ええ、そうですけれど」
「少し、暗過ぎやしませんか。これでは、診るに診れないと思うのですが。それとも…その…見えるのですか? き、吸血鬼さんには…」
 吸血鬼、という単語に敏感に反応したのは、マリアではなくてアルであった。
「おいっ、おっちゃん。吸血鬼って言うなよっ。吸血鬼っていうのはなぁ、人の血を吸って生きるヤツラを言うんだって。マリアねえちゃんは人の血なんか吸ってねえべさっ」
 本気で怒鳴っているアルを見て、マリアはブロンドの髪の奥でにこにこしている。
「マリアねえちゃん、なに笑ってるのさ」
「いいえ、別に夜目は効かないのです。吸血鬼と言えどもですわね。だからといって、心配することもありません。わたしは別に手術をするわけではないのですから」
「人の血を吸わないでどうやって生きているのですか」
 男性はなにやら興味でも湧いてきたのだろうか、しなくても良い質問をした。それに、またアルが怒鳴ろうとしたが、マリアはそれを制した。
「本当に、アルが怒鳴るのも分かりますね。失礼な方です。あなたは一体ここに何をしにきたのですか。わたしの取材にでもきたのですか。そうなら、答えるつもりはありませんから、帰ってくださいませ。……お嬢さんを助けてもらいにきたのでしょう?」
 少女を抱いたまま、ダニーは、は、はい、要らぬ質問をしました。すいません、ミシェルを診てやってください、と大いに動揺しながら喋った。
「ミシェルちゃんを奥のベッドへ寝かせて、アルはもういいわよ?」
 抱いていた娘を、ダニーは部屋の奥にある、かなり大きめでまっさらなシーツの敷いてあるベッドの上に、ゆっくりと下ろす。
 アルは、じ、とミシェルの父親を凝視して、いや、ぼくはまだここにいるさ、んであのおっちゃんがなんか悪いこと言ったら追い出してやるんだ、言って、部屋のドアをきちんと閉める。マリアは、にこりと笑って、それを見る。
 アルがダニーの後ろにある椅子に座り、ダニーは立ったままでミシェルを見ている。マリアは先ほど捲った袖をさらに捲り上げて、ベッドに近づいた。すると、ダニーはマリアの一挙手一投足を見逃すまいとするように、彼女を凝視しはじめた。恐らく、娘に食いついたりしないかどうか不安なのだろう、とマリアは思う。それもいつものことなので、慣れてしまっている。
「おっちゃん、なにじっとマリアねえちゃんに見とれるんだよぉ」と、アルが見当違いのことを言う。
 マリアは、ベッドの上でぐったりとしているミシェルの胸の上に手をおいて、目をつぶり、その手を徐々に動かしていく。
「なぜ、病院に行かないのですか。わたしのところに来る人は、みな最後にここにくるのですが、この子は病院に行っていないでしょう」
 彼女は目をつむったままである。
 な、なぜ? と父親は疑問を口にする。
「なぜ分かるのかと言いたいのですか。それともなぜそんなことを聞くのかと言いたいのですか。この子の体の中に、薬の感触がないから分かるのですわ。わたしたちは、そういうことに敏感なのです。それから、この子の病気は先天的なものですわね。ですから、わたしは一応治療をしますけれど、根本的に直すことはできません。病院でも同じですが、病院では定期的に薬を貰えます。だから聞いたのです」
「先天的? 一体どういうことなのですか?」
 ミシェルの体全体を手を当てての触診を終えると、マリアはようやく目を開いて、少女の父親のダニーを見た。
「ミシェルちゃんは、内臓が全部逆になってしまっているのです。専門的になんと言うのかはちょっとわかりませんけど、ええと、内臓全転移症だったかしら、とにかく、内臓が全て逆になってしまっていると、その全ての内臓に、悪影響が出るのです。要するに少し内臓が弱いので、いつ、どこに、どのような症状がでるかわかりません。ですから、うちでの治療のあとで、病院に行くことを勧めますわ。それで、なぜ病院に先に行かないのですか」
 少し困ったような顔をして、父親は喋り出した。
「純粋にお金がないんですよ。ここなら、ただで診ていただけるという話しを聞いたので、ここへ先にきたんです。でも、直らないんですか?」
 ただで、という単語を聞いて、アルがまた言う。
「そうさっ、ただだよ。それがこの街に住むための条件だったんだからさぁ」
「アル、それは要らないことだわ……。そう、それで、ダニーさん、ミシェルちゃんは、例えどんな病院でも直らないのです。だって、内臓を全部取り出して全部逆に入れ直すなんて、無理な相談ですもの」
「そんな、それでは一体どうすれば良いのですか……」
「とにかく、今日は心臓がおかしいみたいなので、それを直しておきますわ。お金がないというなら、悪くなったらまたここにいらしてください。わたしは、少なくともあと一〇〇年はここにいる予定なのですから」
 一〇〇年という長さに、ダニーは驚いて、マリアに恐怖のような、畏怖のような視線を向けた。しかし、彼女が同時に救いの女神であることも思いだして、お願いします、と日本風にお辞儀をした。今度は握手をするのに抵抗があったのだろう。
 それを気にした様子もなく、マリアはミシェルの方へ視線を戻して、右側の、心臓のある位置に手を置いて、息を大きく吸い込むと、何がしかの力を入れるようにして、体が震えはじめる。ミシェルの方に、変化は全く見られない。何かが光っているとか、何か怪しげなものが見えるとか、そういう現象は全くない。しかし、マリアの方を見ていたダニーは、彼女の瞳が真っ赤に染まって行くのを見た。白目ではなくて中央の先ほどまで青かった瞳が、まるでワインが満ちるようにして、血に濡れるようにして赤くなったのである。彼はあわてて眼を逸らした。なぜかそれは見てはならぬような気がしたからだったが、その真っ赤な吸血鬼の瞳は、彼の眼の奥に焼きついて離れようとしなかった。そして、彼女の瞳が真っ赤になり、少し時間が経つと、ミシェルの体に変化が現れはじめた。ぐったりしていた彼女が、すうすう、と気持ち良さそうな寝息を立て始めたのである。その音を聞くと、ダニーはやたらと嬉しそうに、ミシェルの手をとって自分の頬に当てて、頬ずりをし出した。
「おっちゃん。良かったなぁ、また悪くなったらちゃんとくるんだぞぅ」
 アルはいつのまにやらダニーに感情移入したらしく、涙まで浮かべている。マリアはミシェルの心臓の上から手を離すと、ため息をつき、額ににじみ出ていた汗を拭う。目の色が徐々に元の青色に戻って行く。ベッドの横から、彼女は抜け出て、テーブルのところまで行くと、紅茶のポットにお湯を足して、葉っぱも足して、良くかき混ぜると、コップの中に紅茶を落とす。その香気が全員の鼻をくすぐる。
「あの、一つだけ、聞きたいのですが」
 娘の手をとっていた父親のダニーが、こちらに顔を向けて言った。マリアは、何です、と紅茶に口をつけながら答える。
「もし、もしもですよ、このミシェルがどうしようもなくなってしまったら」
 嫌な予感がした。
「そんなことは、無い方が良いに決まってますが、もしもです。もしも、そのもうだめだというところまで来てしまったら、娘を、ミシェルをどうにかして生かしてやってもらえませんか。そう、その、あなたは、その、ヴラドとかドラキュラとかカーミラの子孫なわけでしょう。だったら、ミシェルがもし、死ぬようなことがあったら、どうか、この娘を噛んで、生かしてやっては貰えませんか。その、そうすれば、生きられるのでしょう? しかも、貴方のように、いつまでも長生きできるのでしょう?」
 やっぱりそうだった。嫌な予感は当たる。いつでもそうだ。隣を見ると、アルも嫌そうな顔をして、ダニーを見ている。マリアは、聖母と同じ名を持つ彼女は、吸血鬼は、目を背けた。紅茶をテーブルに強く、叩くようにして置く。
「そんなことを頼むなんて、なんて、馬鹿なことです。そんなことはしない方が良いわ。ミシェルちゃんは人間です。人間は人間として生きたほうが良いに決まってます。それに、あなたは不老ということの本当の意味を知らないですわ」
「先生、そこをどうにかお願いできませんか」
「先生なんて呼ばないでください。わたしは先生なんてものじゃありません。とにかく、もう治療は終わりました。帰ってください。いえ、帰りなさいっ」
 ダニーは突如として、彼女が吸血鬼であったことを思い出したように、恐怖に震え出した。怒鳴られると、慌ててミシェルの元へかけより、気持ちよさそうに眠るその娘を抱き上げて、何かに、何か目に見えないものに追い立てられるようにして、ドアを開けると、ドアを開け放したまま、廊下をかけて行く。アルが気付いて、慌ててドアを閉めようとする。しかし、その寸前に玄関の扉の方が早く開き、光が死の光線を伴って侵入してきた。すぐに部屋のドアは閉められ、光は遮断されたが、アルが後ろを振り向くと、マリアはベッドの上に、うつ伏せに倒れていた。
 マリアねえちゃんっ。叫びながら少年はベッドの上の吸血鬼を仰向けにする。マリアは気を失ってはいなかった。
「だめっ、見ないでちょうだい」
 何を見てはいけないのか、とっさにアルは分からなかった。しかし、彼女が片目を押さえているのに気付いて、どうしたの? 目がどうかしたの? 大丈夫かねえちゃん。と聞く。
「光を肉眼で直視してしまったわ。左目が」
「あのおやじっ」
 少年は突然怒りはじめた。そして、部屋の奥にあるタンスから予備の分厚く真っ黒なカーテンを、ドアのところに吊って、光が入って来ないようにする。
「アル? あなた一体何しているの」
「あのおやじ、絶対謝らせてやる」
「止めなさい。いいのよ。アルがそんなことをする必要はないわ」
「だけどさっ」
「止めて、これはお願いだわ」
 お願い、と聞いてアルは黙らざるを得なかった。彼女がそう言ったら、聞かなきゃならない。
「……うん、分かったよ、とにかく、僕は玄関を閉めてくるよ、開いたままみたいなんだ。ついでに、さっきの手紙も送ってくる」
 アルはマリアの返事を待たずに、ドアの前に吊ったカーテンの向こう側へ行くと、光があまり入って来ないようにドアを少しだけ開けて、扉を閉めて玄関へ向かった。
「アル……、行ってらっしゃい」
 マリアは左目を押さえたまま、鏡の方へ向かう。玄関の方から、扉の閉まる音がした。部屋の壁につけてある鏡台の前の小さな椅子に座り、彼女は左目にあてていた手のひらをそっとどかした。
 あ、と声が出てしまった。左目は完全に灰になってしまっていた。形は原型をとどめていたが、機能はまるで果たしていなかった。しかしその原型を留めている灰も、驚いて瞬きをしてしまうと、激痛と共に、ぼろぼろと白い服の上に落ちてしまった。うう、という唸り声が出たが、それが果たして痛みからなのか、悲しみからなのか、彼女自身にも分からなかった。あるいは両方だったのかもしれない、と後で思った。


 ここの土地では、日は五時ごろには沈んでしまう。夏はもちろんもう少し長いのだが、冬にはもっと短くなる。今はその中間で、太陽は街の建物の地平線の彼方に、もう半分以上沈んでしまっているはずだった。しかし、吸血鬼のマリアには、それを見ることができない。太陽が沈もうとしていることだけは、感覚と、経験で知ることができるのだが、確かめるすべは、実際外を見るか出るかしなければならないわけである。普段なら、アルがいつも、外まででて、もう大丈夫だよ、と言ってくれるのだが、今、アルはいなかった。
 彼女はだんだんと心配し始めていた。アルが手紙を出しに行ってから、もう三時間になる。何かあったのかもしれず、どこかによっているのかもしれなかったが、日が出ている間は、彼女には確かめに出る術さえないのだった。不安になりながらも、何もできないのである。すぐそこにアルがいるのであれば、例えば傷を負っていても助けることができる。さっきの少女もそうやって助けてあげたのだ。あれは、何か治癒をしてあげたわけではない。吸血鬼は血から栄養ではなくて、生気を得て、その生気によっていわば他人の命を使って不死でいるわけである。先ほどの少女にはそれを少しばかり分け与えて上げたのだ。しかし、いざ目の前に誰もいないとなると、吸血鬼にだって何か特別なことが、例えば昼夜を逆転させるなんてことが、できるわけではない。
 マリアは、家の中の、幾つかのタンスを掻きまわして、以前使っていたサングラスをかけている。彼女の左目はもう再生不可能であったから、そうして隠しているしかないだろう。左目の周囲も、日の光の影響を受けて、半ば石化している。人間の病気の中に、病名は忘れたが筋肉がカルシウムに、つまり骨に変わってしまう病気があるが、その病気よりも、ずっと一瞬にして石化してしまう。体よりも目に先に影響が出たのは、目が光をもっとも敏感に吸収する組織だからだ。
 マリアは先ほどから落ち着かない。自分の部屋の中をまるで空き巣が探し物をするみたいにぐるぐると回り続けている。しかし、日が落ちるまではどうしようもないのだ。
 半刻、一刻、と時間はまるでマリアをじらすようにしてじりじりと匍匐前進していく。それはドアの隙間から入ってくる光の恐怖よりも、ずっと、そして不安に、長い時間であった。恐怖よりも不安の方が、時間をずっと長く感じさせることもあるのだわ、と気分転換に考えてみたりもしたが、一秒はまるで活動写真の一コマをさらにコマ落としにしたように進まなかった。
 そうしているうちに、マリアはふと、蝋燭の置いてあるテーブルよりも少し高い台の上に、四角い封筒があるのに気付いた。彼女はそれに近づいたが、手に取る前にそれがなんであるかに気づいた。アルが記していた手紙。アルはこれを送りに出たのではなかったか。マリアはとてつもなく嫌な予感に前を遮られた気分だった。悪い予感は当たる。いつでもそうだ。でも今度だけは、違って欲しかった。彼女はその封筒を開けようとして止めた。アルは彼女に見せたくないと言っていた。では見てはいけない。アルはこれを忘れたのだろうか、彼女は希望的な観測をしたが、それはすぐに追い払われた。台の上に置いてあったということは、アルが自分で置いたのだろう。そうであれば、いくら忘れんぼうのアルでも忘れたりはしないだろう。では、アルは何をしに出ていったのだろうか。もしかして、あのダニーというミシェルちゃんの父親のところに行ったのだろうか。そこまで考えて、彼女はそうに違いないと結論した。それ以外にアルの行く場所は考えられなかった。
 マリアはもう待っていられなかった。恐らく日はほとんど落ちているだろう、と彼女は考えて、用心にタンスの中から厚手のコートを取り出すと、それを上にはおり、ポケットにアルの手紙を入れると、文字どうり飛び出すようにして部屋のドアと、そして玄関を開けて外に出た。
 日差しはほとんどない、と人間ならば考えたであろう。しかし、空はまだ黒ではなく、黒紫で、建物の向こう側に、まだ夕焼けを望むことができた。それは血の赤である。少なくとも吸血鬼にとっては死の象徴で、恐怖の対象だ。マリアは一瞬躊躇したが、全身の激痛と吹き出る汗を我慢して、タイルで舗装されたばかりの、真新しい道路を警察署の方に向かって走り出した。平時であれば、吸血鬼の体力は人間の十倍に及ぶ、しかし、全身を太陽の光に犯されながらでは、その二倍弱が良いところであった。
 それでもなんとか走り続けると、警察署が見えてきた。大きくはないが、頑丈そうな建物である。彼女はその入口から、中に走り込むと、受付の女性に、ダニーの自宅を聞こうとした。しかし、それよりも前に、彼女がその同僚と話しをしているのに、気が付いた。
「あの子供、大丈夫だったのかしら」
「かなり激しい衝突だったものねぇ。でも、あの子この辺で見たことある?」
「ないわね。そういえば、一体どこの……」
 さぁ、と既に死んでしまったはずの血が下に下がって行くのが分かった。彼女は慌てて、その子供は一体どこに行きましたか、と女性に聞く。
 女性はマリアの服装に少しばかり驚いた様子で、この街のもっとも大きな病院の名前を告げた。女性はそのあとも、ところであなたはあの子の……、と何か聞いていたようであったが、彼女はそれを無視して、警察署から出ると、今度はその病院に向かって走りだす。すでに日は完全に落ちていたので、彼女はコートを脱いで手に持ち、恐ろしい勢いで走る。
 病院までは、すぐに到着した。人間であったら、あと十五分はかかっていたところだったが、彼女は風を追いぬくようにして走り、走り続けたのである。
 入口から中に入ると、先ほどと同じように受付があり、女性がそこで何かを受けとっているようだった。マリアはその脇から無理やり入り込むと、アルという少年が、ここに来ませんでしたか、と口の端から牙が見えてしまうのも気にせずに、聞いた。看護婦らしき女性は、それを見てぎょっとしたが、何かの書類に目を通し、アル、ですか、そういう名前はありませんが、と丁寧な演技をして言う。そして、少年、でしたら、先ほど名前の分からない七,八歳の少年が事故で担ぎこまれて、手術を受けました。
「それで、その子は今どこに?」
「その子は今、308号室にいますけれど、しかし……もう」
 もう? もう一体なんなんですかっ。と聞いたが、看護婦は黙ったままである。彼女は看護婦が口を開く前に、308号室へと足を向けた。走ろうとしたが、看護婦からはしらないで下さい、と制止を受けて、小走りにせざるを得なかった。
 308号室は三階の、階段に一番近い部屋であった。
 マリアは二回だけノックをして、おそるおそるドアを開けた。
 中には白衣を着た医者と、看護婦が一名だけいて、その前のベッドの上に、少年が寝かされている。医者と看護婦はマリアが入ってきたのに気付いて、あなたは? と聞いたが、マリアにはベッドの上の少年の顔しか目に入っていなかった。
 アルだったのである。
 マリアは何か痙攣を起こしたようにがくがくと震えながら、アルのそばへ、医者と看護婦を掻き分けて近づく。医者がご親族の方ですか、と聞く。マリアはそれを無視して、
「あ、アルは、アルは、一体何があったんですか。大丈夫なのでしょうか」
と言った。
「この少年は、アルと言うのですか。それともそれは愛称ですかな」医者は淡々として言う。
「アルは? アルはアルバートのアルですっ」
「アルバートね。アルバート君は、事故にあったのです」
 事故。
「そう事故です。どうやらどこかに向かっている途中で、道路に飛び出したらしい。そこを」
「そ、それで、どうなんですかっ」
「手術はしましたが……しかし、今はもう昏睡状態です。残念ですが……時間の問題です」
 時間の問題。
「そうです、時間の問題……いや、しかし、あなたは一体誰なのです。この子の母親ですか? それにしては若いようですが」
 医者はマリアをじろじろと見まわして、彼女の口の奥の牙に気がついた。そして慌てふためいて、あ、あなたもしかして、あのこの先の通りに住んでるっていう吸血鬼ですかっ、と叫んだ。看護婦もその言葉に驚いて、恐怖に憑かれたようにして、ドアのところまでにじり寄る。
「だったらどうなのだと言うのですか。あなたがたが心配しているような、アルに危害を加えるようなことはしませんわよ」
「と、とにかくっ、き、君はこの病室から出て行きたまえっ」
 医者は不条理なことを口走る。恐怖のためだろう。マリアはその言葉に、怒りを覚えた。
「出て行くのなら、あなたがたが出て行きなさいっ。ここは病室です。怒鳴ると患者に悪影響が及ぶでしょうっ。さぁ、早くっ、出て行きなさいっ」
 口の端からのぞく、二本の牙が、医者を威嚇し、医者は脂汗と冷汗を同時に流す。看護婦がマリアの言葉に怯えて、ドアを開けて逃げて行ってしまうと、医者もたがが外れたようにして、部屋を出て行った。
 彼女はその病室の鍵を閉めて、もう一度アルの隣へと戻る。
 アルの鼻や口には、空気を送り込むチューブが入り込んでいて、体中が包帯で白くなっている。恐らく、自発呼吸もできないような状態なのだ。彼女は悲しくなった。アルは目を瞑ったままで、確かに寝ているようにも見える。しかし、それ以上に、アルの体から、死を予感させる、ある種の匂いが漂ってきているからである。それは吸血鬼にだけ分かる、死神の匂いだった。アルはもう引きかえせないところまで行ってしまっているのだ。
 彼女はサングラスを外して、アルの首筋へと口を運んだ。
 彼女は口を大きく開いて、牙を剥き出しにした。
 彼女は、そこで自分のしようとしていることに気付いた。
びくり、と震えて、彼女はその行為を止めた。アルを仲間にする? それは最後の手段で、しかも彼女にとっては何か、魅力のようなものを持っていた。アルを仲間にすれば、アルは永遠にマリアのそばにいてくれるだろうか。いてくれるかもしれない。そこまで考えて、彼女は泣きそうになった。何を考えているのだろう。それは少年が望んだことではない。それは自分のエゴだわ。なんて、なんて卑しい人。人、という響きに彼女は滑稽さを感じて、また悲しくなった。
 アルが目を開いたのに気付いたのは、すぐだった。マリアはアルをずっと見ていたからである。不思議と医者と看護婦は帰って来ない。警察か何かをつれて、戻ってくるかと思っていたのだが、幸いだった。
「アルっ。わたしが分かる? マリアよ」
 アルは苦しそうにしている。彼女がそばにいることは、どうやら分かるようだが、何かに酷く苦しんでいるように見える。そして死神の匂いは先ほど以上に酷く臭う。
 アルは何かを言おうとしているようだった。もごもご、と口を動かしているが、喉に入っているチューブのために、何をいうこともできない。しかし、それを外すことも出来ない。外し方を知らないのだ。彼女は何度かアルの名前を呼び、手を握ってやったりした。
 しかし、アルはあっとういう間に死神の鎌に狩られてしまった。苦しんでいたのは数分だっただろう。眠るようにして死んだわけではなかった。苦しんだまま死んでしまった。マリアは開かれたままだったアルの目を閉じてやった。彼女にできるのはそのくらいだった。それだけのことしか、彼女にはできなかった。吸血鬼だというのに。だから、吸血鬼は特別などではないのだ。
 マリアはしばらくアルの隣でじっとしていたが、ふと何かに気付いたようにして、コートの中から、アルの手紙を取り出す。まだのり付けもされていないその封筒から紙切れを取り出すと、開く。かさかさ、という静かな音だけが、308号室にある。
 アルが事故に遭ったと聞いても、重体だと聞いても、息を引き取っても泣かなかった彼女の瞳から、涙がこぼれおちて、真白い服装をぬらした。不思議なことに、涙は両方の瞳から流れ出した。真っ先に流れ出した涙を追うようにして、彼女の両目からは、ぽたぽた、と悲しみが落ちる。
 その手紙は、マリアに宛てられたラブレターだった。
 とても稚拙な文字で、ごく簡単な単語だけで、書かれたラブレター。
 マリアはその文字を涙の目で追い続けて、最後の一文で止めた。
「まりあ、ねえまりあ、ぼくにはおねがいがあります。ぼくは、まりあがいやがるってわかっているんだけど、まりあ、ぼくをねえちゃんのなかまにしてください。おねえちゃんいつもひとりでさびしそうだから、ぼくがいっしょにいます。えいえんにまりあねえちゃんのそばに。おねがいします。ぼくをなかまにしてください。」
 マリアは息が詰まった。さっき苦しそうにしながら、アルが言いたかったのはこれだったのだ。アルの言葉はわたしのすぐちかくにあった。コートのポケットに入っていたのだ。どうして気付かなかったのかしら。そう思ったがもはや後の祭りだった。悪い予感はいつでもあたるし、後悔はいつも後にも先にも立たない。
 両目から流れ出る涙を拭くと、どうしようもなく重いため息が、一番奥から吐き出された。
 彼女はサングラスをかけ直した。


 幾日かして、マリアは手紙を書いた。アルに宛ててではない。アルが息を引き取った日に診療に訪れたダニーとミシェルにである。


「もしもあなたの娘、ミシェルちゃんの容態が悪くなり、どうしようもない状態に陥ってしまったならば、もう一度、わたしのうちへと連れて来てください。あなたと、そしてもう一人、ミシェルちゃんと相談した上で、彼女をわたしの仲間にするかどうか、決めましょう。もし、彼女とあなたが同意したならば、わたしはミシェルちゃんを仲間にしましょう。もう、二度と躊躇はしません。二度と」