ファルファッレ

Babin no Hitsugi




何でわたしは、いいえ、わたしだけではなくて、とても多くの人が、美味しいものを食べたいと思うんだろう。栄養を取りたいのだったら、自分が取りたいと思っている成分を含んだ料理を食べるだけで、いいのに。何で、わたしは、美味しいものが食べたいんだろう。

 二四歳になって、わたしはほんの少しだけ焦っていたのかもしれない。別に、適齢期なんて馬鹿みたいな迷信を信じていたわけじゃないけど。

 太陽がコンクリートジャングルの西側に、夕焼けを残さずに没してしまったら、温度は一時間で一気に三度も下がって、雪が降るんじゃないかと思えるほど、空気が凍結したので、わたしは冬になってタンスから引っ張り出したコートと自分を、抱擁するみたいにして暖をとった。

 わたしは東京都の南の外れにある、時々何か特別なことがあるときに入るパスタ専門のレストランの前で、ちょっとだけ離れた場所にある駐車場に車をとめに行っている彼を待っている。彼とは付き合いはじめてから二年半、正確には二年と七ヶ月と十六日が経つ。

 今日久しぶりに「ファルファッレ」という名前のこのレストランに食べに来たのは、わたしが先日TOeICという、国際コミュニケーション英語能力テストでとても良い点数を取ることができたお祝いをするためだった。ほとんど実力をためすだけのつもりで受けたTOeICのテストだったけれど、結果的に今日は特別な日になったのだ。

 わたしは今度は両手を擦りあわせて手の冷たさを取り除こうとしながら、先に中に入っていようかしら、と思った。口から吐き出す息が白くて、その白い息を手に、はー、と吹きかけたりしているうちに、彼はジャンパーのポケットの中で車のキーをもてあそびながら、ちゃりちゃりとやって来た。

「さきに入ってて良かったのに」

 言うと思った。

「あー、酷いなー、せっかくこの綾様が待っててあげたというのに」

「あ、その後のセリフは俺に言わせて――そんなセリフ言うくらいだったら、ありがとう、って言いなさい――でしょ? 綾の口癖だからな」

「わかってるんだったら、言いなさいって」

 わたしは演技じゃなくて笑顔になる。

「うん、ありがとう」

「う、礼君のそういうところには負けるなー」

「さ、さ、入ろう。なんだかいきなり寒さが増した気がするぞ」

 そう言いながら、彼はわたしの手をつかむ。

「うわ、冷たいなおまえの手」

「誰かさんを待ってたからね」

 彼の手は、ジャンパーに入っていたせいか、とても暖かい。きっとわたしの手との温度差は五度以上あるに違いない。彼はわたしを引っ張って、「ファルファッレ」と書いてある門を通りぬけ、入口の木製の扉を開ける。暖房の効いた暖かい空気がわたしと彼とを包み込んで、一瞬で外の寒さを忘れさせてくれた。中に入ると、人の声が活気に満ちて心楽しくさせる。わたしたち二人はウエイターに導かれて一番奥の窓側の席に座った。特別な日しか来ない店と言っても、ウエイターとはほとんど顔見知りなので、何も言わないでも、開いていればこのわたしたちの特等席につけてもらえる。

「ああ、あったかい」

 とわたしと彼は同時に同じことを言って笑った。わたしはバックを下ろしてコートを脱いで隣の開いている椅子の上に折り畳んで置く。彼もジャンパーを脱いで、やはり隣の椅子の上に無造作に置く。ウエイターがお冷やとおしぼりとメニューを持ってきて、それをわたしたちの前のテーブルに丁寧に置く。ウエイターは一礼して一端戻る。

 わたしはメニューを一枚一枚めくっていく、彼はいつも食べるパスタが幾つかに決まっているので、わたしが決めるのを待っている。メニューにはオーソドックスなスパゲティから、ピペッテ、ペンネ、ヴァーミセリ、フェトチーネ、エリーケ、ロレッテ、リガトーニ、カネロニ、パパルデレ、コンキリエ、そしてファルファッレまで、ほとんどのパスタを使った料理がところせましと載っている。このレストランの名前でもある「ファルファッレ」は蝶々の形をしたパスタで、濃厚なソースであえたり、あるいはスープの浮き実に使うものだ。

 うーん、と唸りながら、わたしの視線はメニューの上の沢山のパスタ料理を音速を超えるくらいの早さで移動する。わたしは初めてこの「ファルファッレ」を訪れてから、ずっと違うメニューを頼み続けてきたので、今回も今まで食べたものとは違うものを選ばなくちゃと、勝手に決めたりしている。今までに、メニューの半分くらいは制覇したと思う。なんだか、今日はファルファッレを使ったパスタが食べたいような気分だったので、蝶々の形をした料理の上をわたしの視線は求婚する紋白蝶みたいに飛んだ。幾つか求婚相手を見つけると、その中からオーディションを行って最終的に「サーモンとナスの炒めパスタ」を選んだ。

「決まった!」

 と、まるで子供みたいな身振りで顔の前で手を合わせながら、わたしは彼に求婚相手の料理を告げる。

「あ、いいね、それ美味しそうだね」

テーブルの上のメニューを覗きながら彼はにっこりとして、すいません、と手を上げた。すぐさまウエイターが気付いて、こちらのテーブルへやってくると、丁寧な口調でオーダーを取る。彼はわたしの「サーモンとナスの炒めパスタ」を先に注文して、それを二つ、と付け加えた。彼がいつものレパートリ以外から料理を選ぶなんて初めてのことだったので、わたしはちょっと驚いた。なんでだろう。気分でも変わったのかな。ひょっとしたら、本当に美味しそうに見えたのかもしれない。とにかく、ウエイターはさっきと同じように一礼して奥のキッチンへと入って行った。

「サーモンとナスの炒めパスタ」は、二つとも二〇分くらいして同時にやって来た。ウエイターが手馴れた手つきでわたしたちの前に、その二つのお皿を置き、ごゆっくり、と言う。ウエイターが戻ったのは、ほとんど分からなかった。良いレストランでは、ウエイターはでしゃばらず、さも居ないかのように振舞う。それでいて客には最高の印象を与える。と、何かで読んだような気がした。本当かもしれない、と思う。

 彼は、おめでとう、とわたしのことを祝ってくれて、今日は良い日だね。絶好の日だ。とすごく嬉しそうだ。わたしもなんだか嬉しくなって、食べましょう、と言った。今日の料理は特に美味しそうに見える。しかし、それは本当に美味しかった。

 わたしたちは、特にわたしが、なのだけれど、食事中にはそのとき食べている料理について話すことがとても多い。今日もそうだった。それはいつも味からはいって、調理法へと展開する。

「普通さ、ファルファッレって濃いソースを使って調理するだろう? でも、これはすごくシンプルな味付けだよね」

「うん、うん、でも美味しい!」

 フォークでサーモンとファルファッレを突ついて、それをわたしは口に運ぶ。

「これ、多分、塩と胡椒と……」

「オリーブオイル!」

「そう! 多分味付けはそれだけだよね。あとはナスとサーモンと玉葱から染み出してる味だ」

「えー、でもなんでこんなに美味しいんだろう。不思議。あとでコック長さんに聞いてみたいわ」

 そうだね、そうしようか、と言いながら、彼もファルファッレを口に入れる。それを口の中で噛みながら、彼は何かに気付いたようだ。

「あ! わかった、これ、揚げてあるんだ。多分油も使ってある」

 ええー、と驚きながら、わたしもまた蝶々のパスタを慎重に吟味する。

「そっか! オリーブオイルを使って揚げてあるのね。うー、美味しい」

 思わず顔が緩む。

 それからは、めずらしくわたしたちはほとんど黙ったまま「サーモンとナスの炒めパスタ」を食べた。

 食後にはポ・ド・ショコラを二つ注文した。それもやはり美味しかった。

 口の端についたポ・ド・ショコラをぺろりと舐めて、スプーンを置くと、彼はなんだかわたしの方を見ている。相手に先に食べ終わられてしまって、じっと見られると、とても食べずらい。だからわたしはなるべく彼の方を見ないようにして、カップの中のポ・ド・ショコラを見るようにした。カップの中で、ポ・ド・ショコラは茶色くわたしを誘惑している。セミスイートチョコレートの上には生クリームがまだ運ばれてきたままの状態で残っている。生クリームの上には、さっきまで葉っぱの形をしたチョコレートが乗っていたが、それはさっき食べてしまった。ソーサーの上には、ビターの丸いチョコがまだ二つほど乗っている。初めは三つだった。

「ねえ、綾」

 彼がわたしを呼んだ。

「なに?」

 とわたしは顔を上げた。

「この指輪をはめてくれないか?」

 彼はそう言った。彼の両手の中には青色をしたケースがあり、開いた蓋の奥には、プラチナの上にダイヤをあつらえた指輪が乗っていた。わたしはちょっとの間だけその意味に気がつかないで、スプーンでポ・ド・ショコラを一口食べていた。

「え、と、それって」

 わたしの頭の中は、カタツムリより数倍遅くなっているらしい。

「うん、プロポーズ。結婚してくれってこと。これは婚約指輪」

 現実、というより幻想はその言葉であっという間にわたしを支配した。一瞬して、わたしは自分が涙を流しているのに気付いた。

 二四歳になって、わたしはほんの少しだけ焦っていたのかもしれない。別に、適齢期なんて馬鹿みたいな迷信を信じていたわけじゃないけど。適齢期があるとすれば、それは自分自身だけのもので、きっと世間で言われているようなものじゃないんだ。そして、わたしにとっては今なんだ。とそう思った。

でも、どこから出したんだろう。まるで魔法だ。

 わたしはしばらく指輪を見つめたまま動かなかった。というより、動かないでいたことが分からなかった。答えは決まっていたけれど、はい、と言うまでにもう少しだけ時間が必要だ、と思った。それは何のための時間だろうか。こころがまえではないことだけは確かだった。それは、もう、はじめから、はじめがいつだか分からないけれどはじめから、ついていたことだから。じゃあ、一体なんだろう。ひょっとしてこの一瞬が一瞬以上になればいいと、思っているのかもしれない。結局わたしはその答えを出せないまま、動かないでいた時間から自分を解放した。口に出して、はい、と言うほんのちょっとだけ前に、こう思った。

 料理は美味しいものの方がやっぱりいいわ。今日のファルファッレは、きっと最高のご馳走になるんだ。



the end