CIRCULATE(循環)
-----柩-----






 暗く鉛よりも重い、空を覆い尽くしていた雲が、道端で喧嘩して逆方向に歩き始めた恋人達みたいに別れて、その切れ目からその別れを祝福するように太陽が陽をさし入れた。その日の光は雨で湿った空気の中を舞う埃にくっきりとその光を映して、地上までカーテンを垂らす。乾ききっていた大地が水を吸い込んでこげ茶色に変色して、つまり顔色を良くして、そのカーテンの先っちょが触れると眩しそうに、また顔を白くし始める。
 男は男が旅の途中で知り合ったまだ幼い少年と共に立ち止まり、重く湿ったフードを上げ終えて、散り散りになりはじめた雲の向こう側に見える空を見上げていた。右手を眉の上にひさしにしてかざし、大地がしたように日を顔に受けて肌を白くする。少年はその場に座り込んで、眩しそうにしながらも、男のように手をかざそうとはしないで、雲の向こう側を見ていた。何かその先に見えているのかも知れないが、男にはそれがなんだかは分からない。第一、そんなものを見ているのかすらわからない。
 地平線はなだらかな斜面を形成している。しかし、それは数日前に男達が必死の思いで越えてきた、ニ千メートル級の山々で、有名な山脈である。山の頂上近くにも、もう雪は残っていない。冬、そして春が、先ほどの大雨と共に去って行って、今男達に降り注ぐ光は完全に夏のものとなった。

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「中々良い絵でしょう? この絵はシュールリアリズム派の画家だったM氏が、彼の病死直前に書き上げたものでして。お客サマはお目が高いですな。普通だったら五百万ドルは下らない絵ですが、幸い、お客サマはこの業界でも有名ですし、三百でお売り致しますが、いかがですかな」
 ちょび髭を生やしたいかにも胡散臭そうな、痩せた男が、わたしには意味不明の理屈を捏ね回して、その絵を売ろうとしている。理屈を捏ね過ぎて、餅でも出来てしまいそうだ。でも、彼がわたしに紹介しているその絵は、シュールリアリズム派がどうのこうの、といううそぱちはゴミ箱に捨て入れておくとしても、一見の価値どころか、本当に手に入れたくなるほど、わたしの心を惹いた。
 絵は、なだらかな山稜を背景に、一人の男と、一人の少年が、男の方は立って、少年の方は座り、雲の切れ始めた空を見上げているというものだ。彼ら二人はきっと、後ろの山を何日か前に越えてそこに到着し、その寸前まで降っていた雨がやんで、日が差し込んで来た空を感慨深く見つめているのだ、と私は勝手に思い込んだ。その想像というよりも幻想の間にも、妄想のようなちょび髭のイカサマ文句が飛び込んでくる。
「ええ、ですから、この絵は「ディープスカイブルー」という題名なのです。それはこの絵の空のことを言っていると同時に、この男性と少年の心の中のことでもある、とM氏は言ったそうです」
 直後に死んだはずのM氏が、どうやってそんな論評をしたんだろうか。そう聞いてやろうか。皮肉っぽい性格の私が、私の内側からドアをかりかりと引っ掻いて、意地悪い質問をしろと囁くのに、そっぽを向いて、私は、まだ喋り続けているそのちょび髭の中年男を妨げた。
「分かりました。あなたの論評はともかくとしても、その絵は良いものですわ。買いましょう。三百ね?」

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「カット!」タイミングを見計らって助監督が声を上げた。監督は、椅子から立ち上がって、OK、次のシーンへいきましょう。と手を二回大きく叩いた。
 わたしはちょび髭の中年男を演じた役者に声を掛けられて、いやさすがだね映画界で天才と言われているだけのことはある君の演技は演技を超えている、と肩をぽんぽん叩かれながら誉められた。ありがとうございます。それだけわたしは言って、次のシーンの撮影のために、セットから降りて、洋服をきがえに更衣室へと歩き始める。
 十六の時に当時から有名だったO監督に主役に抜擢されてから、アメリカンドリームの理想形を示すようにして、わたしは成功を収めて来ていた。それよりも以前から、演技やのど、プロポーションを保つために、いろいろなトレーニングを重ねて来ていたけれど、それが役に立ったのかどうかは分からない。しかし、わたしは自分の演技に自信があった。例えばそれが女のホームレスの役であろうと、上流階級のお嬢様の役であろうと、完璧にこなすことができるであろうと、わたしは確信している。
 しかし、最近わたしはその確信と共に、わたしの周りの共演者たちに不信を抱かざるをえない状況に負い込まれていた。
 それは、執拗ともいえる嫌がらせと悪戯の数々である。しかも、それは最近限度を越えつつあった。先週は着替えの途中にマムシに噛まれそうになり、一昨日には靴の中にサソリが忍び込ませてあった。幸い、いずれの場合も大事には至らなかったが、誰かがわたしを憎んでいるか、あるいは殺そうとしているということ自体が、わたしの精神を日に日に蝕んで行く原因となっていた。

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 どうでしょうね? 僕は恐る恐るといったふうに、真向かいに座って書きあがったばかりの僕の最新作を読む編集者に向って、口を開いた。以前から一度書きたいと思っていた、それは女優の舞台裏を題材にしたサスペンス小説である。僕が文壇にデビューしてから書き続けていたのは、SFものであったが、ここで一気に作風を変えてみたい、あるいは、色々なジャンルを書いてみたいと考えたのが、そもそものきっかけであった。僕がそう考えはじめてから、チャンスが訪れるまで、そんなに長い時間を必要としなかった。きっかり、一月、それだけである。
「悪くない」編集者は、頑固者として有名な彼としては、異例ともいえる、悪くない、という言葉を口にした。それは、彼がいつも気に入った作品に対してする、一種のゴーサインなのだ。
 僕は、編集者がその新刊を読む前に出されていたコーヒーに、はじめて口をつけた。それは最低に冷めていて、最高にまずかったが、編集者の口から出た言葉は、最良のものだったから、そのまずさは我慢してやることにした。
 では、と僕は口を開く。では、これを出版していただけますか。
「もちろんですよ。Aさん」

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「もちろんですよ。Aさん」という編集者のセリフが、きっと煩さかったのね。あたしのママはそれを聞いただけで、テレビを消しなさいって怒鳴ったんです。そんなくだらないドラマを見ている暇があったら、キチンと勉強しなさいって。それがいつものママの口癖なんです。全く、何も分かっていないんです。テレビを見ている時間を使って勉強をする、なんておかしな話しです。勉強は勉強の時間にすれば良いんです。テレビは勉強のストレスを解消する一つの手段に過ぎないんだから、その時間に他のことをやりなさいというなら、ショッピングにでも行って来なさいと言うべきなのに。
 それでも、あたしはママには逆らえないので、結局、自分の部屋のある二階にどたどた床と階段を踏み鳴らしながら上がると、部屋に入って、ドアを大きな音がするようにわざとバタンと閉めて、机に向いました。
 だけど、あたしはすぐに後悔しました。ママが、それをパパに言ってしまったのです。実は、あたしのママとパパは本当の両親ではありません。だから、あたしに対して、叱り付けるときも、限度というものがないのです。そのために、あたしの身体には幾つものあざが、あります。けれど、それを誰に言うこともできませんでした。結局、その時も、パパが部屋に入ってきて、あたしを何回も殴りつけました。いつも顔だけは殴らないのですが、きっとそれには理由があるのでしょう。

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 あたしの目の前に座る医師は、その話しを聞き終わると、首を振って言いました。
「ようやく、話してくれたね。よく、話してくれたね。それで、君のお母様は、その父親の行為に対して何も言わないのかね?」
 言いません。ママは、いいえ、ママもあたしのことが嫌いなんです。あたしの本当のパパとママが事故で死んじゃってから、あたしはニセモノのパパとママに引き取られて、ずっと、そんな感じだったのです。
「君が今のご両親に引き取られたのは?」
 三年前です。
「三年間もずっと、その酷い行為に耐え続けていたというのかね。ああ、全く…」
 全く、というのは、どちらに対する呆れ、だろうかとあたしはちょっとだけ考えて、今の両親のことだろうと気付いた。理由なんかないけど、女の直感は当たるのよ。あ、考えたんだっけ?
「とにかく、とにかくもうあの家には帰らなくても良いから、ここで、しばらく様子を見て施設に送ってあげよう。なんなら、私の家でも良い」
 そうその医師に言われた瞬間、あたしは涙を流していました。きっと、今のニセモノの両親から、今の酷い状況から、その他の何かから(きっと精神的なもの)、解放されたからだと思います。あたしは頬から真っ白い床に、目薬みたいに流れ落ちる涙を拭くのも忘れて、わぁわぁと泣いてしまいました。医師はあたしの肩を優しく抱いてくれて、あたしは余計に涙が止まらなくなりました。

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 十三歳くらいの女の子が、医師の言葉によって、心を解放される……というシーンで、舞台の前に緞帳が重々しく垂れ下がってきて、演劇の終わりを告げた。会場は、まだ暗く、照明が灯っていない、ということも影響して、まだ幾人ものひとが、涙を流している。こういう劇的なシーンに泣くのは、圧倒的に女性が多いが、なんでだろうか。女性は感情が男性よりも鋭い、というが、あるいはただ素直なのではないだろうか。そして、俺の隣に座っている彼女も、ハンカチで涙を拭っている。
 耳に心地良い、スローなサウンドがスピーカから流れ出てきて、アナウンサが、以上で本日の演劇はすべて終了いたしました、お忘れもののないよう、お気をつけてお帰りください、と丁寧めいた口調で言うのが聞こえると、会場全体のライトが一斉に光を取り戻した。
「いこうか」と俺は目を真っ赤にして鼻をぐずぐずやっている彼女に、囁くようにして言った。
「大学の、演劇部としてはすごく良く出来た作品だったね。思わず、俺も泣きそうになっちまったよ」はは、と俺は照れ隠しに笑う。
「そんな雰囲気壊すようなこと言わなくてもいいじゃない。あなたっていつもそうね」
 彼女は少し不機嫌そうに、俺のことを見ていたが、ふと、最高に奇麗な微笑をして、
「…あ、泣きそうになったのが恥ずかしくて、そんなカッコつけてるのかなぁ」と俺の顔を覗き込んだ。
 俺はそれが図星だったから、さっき以上にカッコをつけようとして、そうじゃないけど、とにかく会場から出よう、と言って、それが失敗したことに気付いた。彼女が意地の悪そうな、それでいて小悪魔みたいに魅力的な笑みを作って、こっちを見ていたからだ。
 俺は年甲斐もなく、顔を真っ赤にして、彼女の手を取ると、わかった、俺の負け、と彼女を引っ張って、演劇部と催し物のための会場から出た。
 外へ出ると、彼女は俺の腕に自分の腕を組んできて、頬にキスをした。
 そして、その瞬間、暗くなり始めた空気の中に、フラッシュが瞬いた。

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 雨の降り続く中で、男と、少年はフードを目深に被ったまま歩いていたが、ふと、少年は持っていた薄汚れているバックの中から、何かのパンフレットを出して、ぺらぺらと何ページかめくると、男にそれを見せた。
 この写真、ボクの行きたい大学なんです、ボク、特にこの催し物のために作られた会場の写真が好きで、ホラ、会場の前の階段の上のところでカップルの女性の方がキスしてるでしょ? なんだか、とっても素敵でしょ?
「へぇ、しかしなんだって、名家出身の君みたいな前途ある少年が、あんな辺鄙な山中にいたんだい?」
 という男の質問に、少年は少し寂しそうな顔をして、口を開くのをためらう様子を見せた。手に持っている大学の煤けたパンフレットを丸めてバックにしまう。
「いや、別に言わなくてもいいんだけどね」
 ボクは、と少年は口を開く。
 ボクは、お父さんと、お母さんと一緒に、南アメリカのB空港からカナダのRまで旅行に行こうとしたんです、でも、途中あの山の中に飛行機が墜落しちゃって、それで……。
「まさか、それでその墜落した飛行機の場所から僕と会った場所まで来たのか?」
 はい、お父さんも、お母さんも、死んじゃってて……だけど、他に生きている人もいたから、誰か助けを呼びに行かなきゃと思って。
 男はしばらく眉をひそめていた。何か言わなければならないと、勝手に考えているのかも知れなかった。しかし、こういう状況のときに、かけるべき最良の言葉なんて、そうあるものではない。あるいは、何も言わないことこそが、最良の言葉だったりもするのだ。
 そのうちに、雨が和らぎ始めた。
暗く鉛よりも重い、空を覆い尽くしていた雲が、道端で喧嘩して逆方向に歩き始めた恋人達みたいに別れて、その切れ目からその別れを祝福するように太陽が陽をさし入れた。その日の光は雨で湿った空気の中を舞う埃にくっきりとその光を映して、地上までカーテンを垂らす。乾ききっていた大地が水を吸い込んでこげ茶色に変色して、つまり顔色を良くして、そのカーテンの先っちょが触れると眩しそうに、また顔を白くし始める。
 男は男が旅の途中で知り合ったまだ幼い少年と共に立ち止まり、重く湿ったフードを上げ終えて、散り散りになりはじめた雲の向こう側に見える空を見上げていた。右手を眉の上にひさしにしてかざし、大地がしたように日を顔に受けて肌を白くする。少年はその場に座り込んで、眩しそうにしながらも、男のように手をかざそうとはしないで、雲の向こう側を見ていた。何かその先に見えているのかも知れないが、男にはそれがなんだかは分からない。第一、そんなものを見ているのかすらわからない。
 地平線はなだらかな斜面を形成している。しかし、それは数日前に男達が必死の思いで越えてきた、ニ千メートル級の山々で、有名な山脈である。山の頂上近くにも、もう雪は残っていない。冬、そして春が、先ほどの大雨と共に去って行って、今男達に降り注ぐ光は完全に夏のものとなった。