第九章 突発事故

 

 

 淳は、朝早くに慶のマンションに向かっていた。特に用事がある訳ではないが、まあ、朝飯をたかりに行こうか、程度の気持ちで歩いていた。この間といい今日といい、何で慶の家の近くを歩くのは早朝なのかな、などと思いながら道を曲がると、雪乃が、玄関の前で座り込んでいるのが見えた。

 声をかけようとしたが、少し様子がおかしい。足音を忍ばせ、垣根に隠れてそっと覗くと、雪乃の前に何かが横たわっているのが見えた。そう、あれはまるで人間の様な──。

 ──人間!?

 淳は慌てて飛び出し、モノの正体を確認しようとした。突然現れた淳に気付く様子もなく、雪乃は、ぼんやりと眼前に横たわるモノを見つめている。

「おい──」

 それ以上言葉は続かなかった。そこには、最近見慣れた、白衣の青年が倒れている。彼の身体の下に、薄く血だまりが広がっていた。

「慶……なんで」

 ──まさか、雪乃が?

 不吉な想像が、頭の中を過る。どう声をかけたものか迷っていたが、覚悟を決め、雪乃の肩を掴んで、軽く前後に揺すった。

「しっかりしろよ、おい。どうしたんだよ」

 目覚めていながら眠っている様な、生きていながら死んでいる様な──雪乃は、まるで焦点のあわない瞳で、淳の向こうを見つめている。

「雪乃!」

 手の甲で頬を叩くと、雪乃はようやく淳を見た。同時に、ぽろぽろと涙を流し始める。

「解らないの……慶……突然……」

 途切れ途切れに言葉を紡ぐ。淳は、雪乃をそっと抱き寄せ、泣くに任せておいた。胸にすがりついて泣いている少女の髪を撫でながら、淳は、意外な程冷静な自分に少々驚いていた。

 時間にしたらほんの数分だっただろうが、泣いたおかげで感情の昂ぶりが静まったのだろう。淳から離れ、手の甲で涙を拭う。

「もう大丈夫よ」

 わずかに微笑み、頷く。淳は、慶の遺体を抱え上げ、マンションの住民に見つからないよう用心して、部屋に運び込んだ。診察台の上に横たえ、白いシーツをかぶせる。かぶせる直前に見た死に顔は、奇妙に穏やかな表情を浮かべていた。

「座ってろよ」

 ソファを指さし、淳はダイニングでコーヒーメーカーのスイッチを入れた。コーヒーの豊かな芳香が流れ出し、湯の落ちる音が聞こえる。ドリップし終え、二人分をカップに注いでテーブルに並べる。

「砂糖とミルクは?」

「そのままでいいわ」

 頷き、何も入れず雪乃の前におく。彼女は、熱く苦いコーヒーを一気に飲み干し、ふっとため息をついている。淳は、急かすでもなく、黙って自分もコーヒーを飲んでいた。

「……突然だったの」

 ぽつり、ぽつりと雪乃は話し始めた。

「昨日の夜は、夕食を作ってあげるって約束だったの。材料を買ってから来てね、料理して食べ終えるまでは何もなかったわ。そう、二人とも食べ終わって──」

 

 箸を置くと、雪乃は、テーブルの上をてきぱきと片づけ、洗い物を始めた。

「あ、私がするわよ」

「いいのよ。慶はゆっくりしててよ」

 でも、いいのよ、としばし押し問答した後、慶は笑って引き下がり、

「じゃあ、拭くわね」

 と、雪乃の横で洗い終わった食器やらを拭き始めた。なに、自分は料理などほとんどしないから、食器乾燥機なんていう洒落たものは置いていないのである。いくら何でも全部任せっきりは悪い、とも思ったのだろう。

 二人は無言で各々の作業を進めていたが、事は突然に起こった。

「……どうしたの?」

 雪乃は不思議そうに問う。慶が包丁を握り締め、凝視しているのだ。呼吸が荒くなっている。ぴりぴりと刺す様な緊張感を、肌で感じた。

 慶の表情に危険なものが浮かんだのをを認め、身を引こうとした刹那、髪を後ろに引かれて体のバランスを崩した。声を上げる間もなく、口を塞がれ、頭を押さえられて白いのどが剥き出しになる。

 観念したように瞳を閉じるが、のどを切り裂かれることはなかった。不意に手が離れて自由になり、慶の方を振り返る。真っ青な顔で立ち尽くしている彼は、包丁を取り落とし、雪乃に背を向けると、部屋から出ていってしまった。

 雪乃は半ば放心状態であったが、彼がこの後どんな行動に出るか──不吉な考えがよぎったので、慌てて後を追って駆け出した。エレベーターホールまで行くと、脇の階段から靴音が響いてくる。一瞬迷ったが、すぐに足音を追って階段を上り始めた。

 どれだけ階段を上がったのか、気がつくと、目の前には屋上へ出られるドアがあった。間に合わなかったのではないか、と冷たい想像を抱え、ドアをそっと開いた。吹きつける風に目を細め、ぐるりと見渡すと、手すりの側に立った慶が見えた。

 ──間に合った!

 だが、数歩足を進めたところで全身の血の気がが引くのを感じた。慶は柵の外に立っている。

「慶……」

 震える声で呼びかけると、彼はゆっくりと振り向いた。意外に穏やかな表情で笑いかける。

「ごめんね」

 それが最後の言葉だった。柵から手を放し、彼の姿は夜の闇に溶け込んで見えなくなる。数秒後、鈍い音が聞こえてきた。糸の切れたマリオネットのように、雪乃は、突然膝を折って座り込んだ。

 どれほどの時間座り込んでいたのか──東の空が薄明るくなっているのを認めた。彼女は、よろよろと立ち上がり、ゆっくりと階段を下っていく。

 エントランスホールを出ると、少し離れた植え込みの側に彼が倒れていた。

「慶……」

 名を呼び、傍らに膝をつく。彼はすでに冷たくなっていた。

 

「そこに貴方が来たのよ」

「そうか……」

 困惑の表情をたたえて、淳は頷く。そんな病癖があったなんてな、とは言わず、口にしたのは別のことだった。

「知ってたのか? その、慶の……」

 雪乃は小さく頷いた。

「確認してたわけじゃないんだけど、無理に何かを押さえつけている、っていうのは何度か感じたわ。前に──最後に集まった日も、そんな感じだった」

 何となく二人とも黙り、沈黙が降りてくる。淳は立ち上がり、隣の部屋へ行くと、診察台のシーツを剥いで、慶の遺体を眺めた。

 変わらない、穏やかな表情で、眠っているかのような慶──淳は、ただ漠然とだが、何かおかしいと感じていた。何がおかしいのかは解らない、けれどおかしい。そう、何かが──。

 眉間にしわを寄せ、じっと慶を見つめている淳を、もう一対の瞳が眺めていた。雪乃である。その瞳は、獲物を狙う猛獣の表情を見せていた。恐ろしいほどの冷たさを瞳に映し、じっと淳の背中を見つめている。

 隙あらば襲いかかろう、という訳ではないのだろう。淳が振り向かないうちに、身を翻してソファへと戻った。軽くうつむき、両手で顔を覆う。

 低く、小さく何かを呟く。その言葉は、誰にも聞かれることはなく、中空へと消えた。

 指の隙間から見えるのは、別人の如き表情であった。


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