第六章 ネズミとハンサム

 

 

 淳と慶に遅れる事半日、夕闇が空を支配し始める時間に、雪乃は繁華街を歩いていた。中途半端な時間なので、道行く人の姿もまばらである。ゆったりとした足取りで歩いていると、ふいに後ろから声をかけられた。

「氷川雪乃君だね?」

 振り向いた雪乃の目に、警察手帳が映った。

 ──まずい!

 刹那、逃走を考えたがやめた。罪状がどんなものであるにせよ、逃げ出すのは、後ろ暗いところがあるからだとみなされる。取り敢えず大人しく連行されて、心象を良くしておいた方がいい。いざとなればどうにでもなるのだから──などと考えをめぐらしていると、警察手帳を見せた、背の高い若くてハンサムな男の後ろから、ネズミめいた小男があらわれた。

「こいつが氷川雪乃か。よし、連行しろ」

 他人を見下した、尊大な物言いをする。雪乃の嫌いな手合いだった。小男は、雪乃の非好意的な視線に気がつくと、歯を剥き出して笑った。まるで猿の様な顔である。

「子娘が、いつまで虚勢をはっていられるものか見物だな。おい、何をしている。さっさと手錠をかけて連れて行け」

「しかし、逮捕状が出ている訳ではないですし、人目もあります。普通に来てもらうだけで結構かと……」

 男が反論すると、たちまち小男の顔が歪み、険悪な表情をたたえる。

「たかだか警部補の分際で偉そうな口をきくな!貴様らは俺の命じた通りに動けばいいんだ」

 強烈な侮辱である。だが、男は表情を消して、階級が上の者に対する礼儀を守った。傍らでそのやりとり(というか一方的な侮辱)を聞いていて、雪乃はつい小男を始末してやりたい衝動にかられたが、感情をどうにか押さえ込むと、背の高い男に話しかけた。

「何の罪状で連行されるのですか」

「下衆に説明など必要無いわ。大人しく逮捕されるがいい」

 小男が口を挟む。背の高い男は、苦々しげに小男の背中を睨みつけていた。雪乃は、小男を無視する事に決め、何やら口上を続けているのを横目に、再び背の高い男に話しかけた。

「心当たりがない事で逮捕されてはたまりませんから。出来れば理由を詳しく教えて下さい」

 自分が無視されている事に気付くと、小男は奇声を上げて地団駄を踏んだ。二人の視線を自分に向けると、小男は雪乃に近寄り、伸び上がって平手打ちを食らわせた。背の高い男は、ますます嫌悪の表情をつのらせる。

「貴様、この私を誰だと思っている。私は……」

「知っているわよ。人語を喋る豚でしょう」

 沈黙が降りる。男の顔色が、赤から青、青から赤へと忙しく変化する。これまでにない強烈な皮肉を言われたので、咄嗟の台詞が出てこないようだ。雪乃は、叩かれた頬に軽く手を当てて、小男を見下ろすと、更に言葉を続けた。

「生憎と、あんたに命令されたり、ひっぱたかれて黙っていたりする義理はないのよ。誰の命令で、何の目的でここへ来たのか言えば、命だけは助けてやるわよ。さあどうするの、死か服従か、よ。さっさと選びなさい!」

 何処ぞの由緒ある家の令嬢の様な容姿の雪乃だが、その気になればいくらでも毒舌を吐けるのである。余りのショックに白っぽい顔色になった小男は、ただ酸欠の金魚の様に口を開閉していた。

「貴様、貴様、きさ……」

 壊れたテープレコーダーの様に、同じ言葉を繰り返している。雪乃は小男に一瞥をくれると、再び背の高い男に顔を向けた。男も、座り込んで呻いている小男を無視し、雪乃に話しかけた。

「殺人事件の捜査をしているのだが、目撃者を探しているんだ」

「何故、名指しで私を?」

「被害者について調べていたら、君と交遊があった事が解ってね。それで、犯人の心当たりを聞けたらと……」

 男の説明を受け、雪乃は取り敢えず安心した。一応理にかなっているし、男も嘘はついていなさそうだ。

「一時間もあればいいんだが……今から大丈夫かい?」

「はい、かまいません」

 頷き、男に従って歩き出す。と、二人の背後で、自失していた小男がよろけながら立ち上がった。

「て、手錠をかけろ、手錠を!」

 雪乃は立ち止まり、振り向きざまに小男を殴り付けた。五秒感ほど空中遊泳し、街灯に叩き付けられ、小男はのびてしまった。

「器用な方ですね。殴ってもいないのに飛んで行ってしまうなんて」

 いかにも「私は何もしていないのに」といった雪乃の口調に、男は笑顔になった。

「全くだ。公安の犬ともなれば、睨まれるだけで良心の呵責を感じて飛んで行ってしまうのだろう」

 ──公安の奴か。道理で偉そうにしているはずだわ。

 ふと男が思い出した様に口を開いた。

「私は横井だ。横井桂一。そこの犬が言ったとおりの警部補だ」

「横井警部補ですか。……貴方は信用できそうですね」

 少し生意気な口を聞いて横井の反応を見るつもりだったが、

「や、それはありがとう。これから署に来てもらえるかな」

 と、普通の態度であった。

「はい」

 雪乃は笑顔で答えると、横井と一緒に歩き出した。

 のびたまま放っておかれた小男が意識を取り戻したのは、二人がいなくなってから約三時間後の事だった。

 

「で、これが被害者なんだが」

 署の応接室で、向いに座った横井が写真を差し出した。

 雪乃は写真を見ると、わずかに眉間にしわを寄せた。見覚えのない女が、写真の中から雪乃へと微笑んでいる。

「どうした?」

 雪乃の様子を見て、横井が尋ねる。頭と軽く左右に振ると、雪乃は写真を横井に返した。

「こんな人知りません」

「……なに?」

「本当です。見た事ありません」

「ああ、疑っている訳じゃないよ」

 と、横井は慌てて手を振る。

「変だな……確かに……いや、でも……」

 何やらぶつぶつと呟いている。

「信用出来る情報だったのですか?」

 はっと我に帰ると、横井は頷いた。

「ああ、ちゃんとした証言だったんだ」

 ふと厳しい表情になる。

「君は……“N”というバーによく行くかい?」

「いえ、私未成年ですし、そんな店知りません」

 この返答が決定打になったようだ。横井は立ち上がると、ついてくるよう雪乃を促して署を出た。

 

「おそらく……君が被害者と友人だといい、君を任意同行した時点で犯人だという証言をするつもりだったんだろうな」

「その、私が関係ある、と言った人がですか?」

 横井は頷き、無言で歩き出す。雪乃は横井の少し後ろを、黙って歩いていた。もちろん、好奇心は人並みに持ち合わせているが、喋ろうとしない人から無理矢理聞き出す、根性の悪さは雪乃にはない。もともとのんびりした性格でもあるし、相手が喋る気になるまで待つ事のできる器量も持っていた。

 信号で立ち止まると、横井はやや重苦しい表情で言った。

「とんでもないな……証言を本物と信じて裏付け調査を怠ったなんて」

 雪乃は黙って聞いていた。よい言葉が見つからなかったのもあるが、口を挟むべきではないと判断したからである。

「被害者の情報が全く出てこなかったんだ。そこにようやくあらわれた証言だったから、無条件で信じてしまった……いや、君に言い訳しても仕方ないか」

「……都合のいい事を信じてしまうのは人間の心理でしょう。刑事さんだって人間なんだから、間違いも仕方ありません。──まあ、そうしょっちゅう間違えられても困りますけれど」

 雪乃の言葉に、横井は目をぱちくりさせながら、照れくさそうに笑い、

「ありがとう」

 とだけ言った。

 正直なところ、雪乃は自分自身の言葉に驚いていた。刑事を馬鹿にする事はあれ、励ます事などないと思っていたからだ。いささか複雑な感情を抱きつつ、雪乃は歩いていた。あの小男はかなり不愉快な存在だが、横井に出会えたのは良かったと思っている。横井は、なんでも頭ごなしに決めつける、官僚根性のみが発達している輩とは違う、人間味のある優しい刑事であった。

 ──そうだ、この人を警察内部の強力者にしちゃおう。

 雪乃も聖人君子ではないから、打算で行動する事もある訳で……この刑事を助けて恩を売っておこう、と決めていた。


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