第五章 意外な一面

 

 

 淳が新しい情報屋と手を結んだ頃、慶は一人で自宅にいた。何をするでもなく、ワークデスクの椅子に深く腰掛け、ただ窓の外を眺めている。コーヒーを片手にのんびりとしていたが、やがて、表情を改めると座り直した。マグカップを傍らによけ、机に片肘で頬杖をつくと、しばし考えに沈む。

「さて、どうくるかしら」

 独語し、デスクに置いてある端末を操作し始めた。黒い画面に文字列が流れ、上方から下方へ消えてゆく。次々と情報を読み取り続け、十分ほど経過しただろうか。突然、画面中央に『WARNING』という文字があらわれ、その下に日本語が並んだ。

 

『奴等ハ動キ始メタ 殺シ屋ハ標的ヲ定メテイル 既ニ五人殺ラレタ 注意サレタシ  管理人』

 

 片方の眉を跳ね上げると、じっと画面を睨む。端末をその状態のまま放り出し、何度か電話をかけると、失望のため息をついた。

「遅かったか……」

 殺された五人の中に、彼があてにしていた友人の名前もあった。端末の電源を落とし、立ち上がると白衣を脱いで椅子の背にかけた。軽く伸びをし、中身が入っているのを確認して、財布をポケットにねじ込む。ふと何かを思い出した様子で、手術室に入り、手術機具の棚を開けて何やら引っ掻き回していたが、目的の物を見つけるとすぐに扉を閉めた。

 戸締まりを確認し、テーブルに放り出してあった部屋のカギを掴むと、そのまま出かける事にした。

 

 部屋を出て、濃い青の空を見上げた慶は、朝方の淳とは全く反対の感想を抱いていた。「不吉なくらいに澄んだ空ね」などと少々ひねくれ気味に呟きつつ、ビルの谷間を歩き続ける。マンションを出て三百歩ほど歩いた時点で、慶はある事に気付いていた。

 ──下手な尾行ね。

 十メートルほど後ろに、女の姿が見え隠れしていた。この場合、女の尾行を“下手”と決めつけるのは、いささか酷かもしれない。相手が普通の人間ならば、ばれない程度の尾行ではあったのだ。ただ、相手が慶で、彼が現在好戦的になっていたのが、女の不幸だった。普段ならそうでもないが、時々、彼はひどく好戦的な状態に陥る──一種の躁鬱病の様なものである。そして、そんな時の彼は、フェミニストでも正義の味方でもなかった。ただ冷酷な殺し屋となってしまう。

 本当なら目的地があったのだが、わざわざ案内してやる義理もなかったので、慶は女を迎え撃つ事にした。神経を研ぎ澄ませれば、女が自分からどれだけ離れて歩いているのか、どの方向を向いているのかくらいは簡単に解る。時期を計りつつ、慶は人込みへと足を踏み入れた。

「結構足が早いわね……」

 一方、女は、慶をつけるのに、かなりの努力を要していた。慶は革靴で、女はランニングシューズ──足音で悟られないよう、動きやすい様に──を履いているのだが、どうにも距離が開きがちだった。やや息を弾ませながら、ともすれば人込みに紛れて見えなくなる、慶の姿を追い掛けて必死で歩いていた。女は、前方から来た男に肩をぶつけ、謝ると視線を元に戻す。だが、慶の姿はそこにはなかった。慌てて慶が先程までいた場所に行くと、突然路地に引き込まれる。右腕をねじ上げられ、苦痛に悲鳴を上げかけると、手で口を塞がれる。そのまま、路地の奥の方へと連れて行かれた。壁を背に、両手を頭上で押さえられてしまう。女は逃げ出そうと反抗したが、身動きひとつとれなかった。まあ、慶は女の様な外見をしているが、実質男なのだから、並みの女の力ではかなわないのは当然だが。

「は、離しなさいよ!」

「断わる」

 慶の声と瞳の冷たさに、女は恐怖を感じた。

 ──いつか見た殺人狂も、こんな瞳をしていた。

 女の動揺など意に介せず、慶は言葉を続ける。

「貴女の名前と身分と……そうね、目的と依頼人の名も教えてもらいましょうか」

「誰が……」

 教えてやるものか、という言葉は続かなかった。慶が、空いている右手を女の首にかけたのだ。全く冗談とは思えない、非友好的な視線をぶつけられ、女の背を冷や汗が伝った。わずかに手に力が込められ、女はか細い悲鳴をあげる。女の声と表情とに、やや悪辣な快感を覚えながら、慶は微笑んだ。雪乃に対する時とは違う、氷の微笑だ。

「チャンスはもう一度だけよ。言うのか言わないのか、どちらにする?」

 抑揚のない、冷めた声であったが、瞳には狂気じみた光が浮かんでいるように見えた。八割方は女の思い込みだが、少しは慶にもその気があるのかもしれない。実際、慶は女が従わないのを期待していた。そう、言う事を聞かないのなら殺してしまえばいいからだ。

 結局、女は慶に対する認識の甘さと職業意識──この場合、女には手を出さないだろう、という誤解と、依頼人の秘密厳守──によって、自分の手で命を投げ出してしまった。

 内心の恐怖を押さえ込み、虚勢をはって女は言った。

「馬鹿にしないで頂戴。そんなこと、死んでも言わないわよ」

 ……“口は災いの元”ということわざがある。女は自ら死刑執行書にサインをし、そのことわざどおりの運命を辿った。

 瞳に浮かんだ冷たい笑みと、彼の右手に握られたメスに気付いた時、女ははじめて慶が本気である事を悟った。だが、既に遅かった。銀色の筋が女の喉元を走り、鮮血が噴き出した。女の瞳から急激に光が失われ、やがて頭を垂れると動かなくなる。動脈を切断したにも関わらず、慶は少しも返り血を浴びていない。さすがに医者といったところか。

 慶が手を離すと、女は血の海に倒れ込み、そのまま起き上がる事はなかった。女の瞳に最後に映ったのは何であったのか──今は知る由もない。

 ふっと肩の力を抜き、地面に突っ伏しているモノを見下ろす。その瞳には、もう狂気じみた光は見えなかった。雪乃に接する時の、いつもの慶に戻っている。

「人が苛々している時に来たのが貴女の不幸だったわね。ま、おかげであの子達に手を出さずに済んだけれど」

 女に聞かせる様に呟くと、身を翻して歩き出した。

 殺人衝動にかられると、敵味方の区別もつけずに殺してしまう場合がある。そんな時、側にいるのが雪乃だったら──と、さすがに悪寒を禁じ得ない。自分の事ではあるのだが、どうにも気持ちが押さえられなくなってしまう。雪乃に出会ってからは、発作のおこる間隔が長くなっていたのだが、最近また増えてきている。魔石の宿主であるせいなのか、自分自身の精神構造に問題があるのか、慶は測りかねていた。

 雪乃や淳は精神異常の兆候を見せてはいない。それが一層、慶の不安を煽っていた。ただ隠しているだけかもしれない、とも思うのだが、雪乃などはしょっちゅう会っていてもそんな素振りは欠片も見せない。やはり自分がおかしいのか──などと不吉な考えばかりが頭を過る。

 ふと、ネガティヴに陥ってしまった自分に気付き、慶は慌てて頭を振った。精神科の医者じゃないしね、自分が解らなくても仕方ないか、などと無理矢理に楽観的な考えをする。

 ──今日は出歩くのはやめておきましょうか。

 女と発作の事は頭から追い払い、これからの事を思案しつつ来た道を戻っていった。


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