第十一章 苦悩

 

 

 ──淳は、真っ暗な道を歩いていた。空に星はなく、街灯も見えない。足下に道があるかどうかも確かではなく、ただ、歩き続けていた。何かに呼ばれたような気がして、振り返ると、慶が立っていた。目を見開き、呟く。

「慶……」

『──を──』

 ぼんやりと暗がりに浮かんだ慶は、口を動かした。だが聞き取ることが出来ない。淳は、思わず聞き返していた。

「何? なんて?」

『気をつけて……』

「気を……つけろ? 何を──おい、待てよ!」

 二人とも立っているだけなのに、互いの距離が離れていく。慶は、それ以上は何かを言うこともなく、哀しげな表情で淳を見つめている。だんだんと遠ざかる慶に走り寄ろうとするが、間が縮まらない。淳は、手を伸ばし、思いきり叫んだ。

「待てってば……慶!」

 ──自分の叫び声で目が覚めた。暗がりに沈んでいるのは、見慣れた部屋の風景だ。上半身を起こし、時計を見る。──午前2時。眠りについてから、1時間しか経っていない。

「夢か……」

 昼間、流に言われたことの印象が強すぎて、あんな夢を見たのだろう。自分を無理やり納得させると、再びベッドに倒れ込んだ。だが、眠りへと逃避することは出来ず、じっと天井を見つめていた。

 

 昼間、流と淳が待ち合わせた喫茶店──午後二時、客も少なく閑散としている。広めの店内を見渡し、淳は、奥まった席に流の姿を見つけた。

「待ったか?」

「いや、今来たところだ」

 確かにそのようで、流の前には、まだ水とおしぼりしか置かれていない。

「何か頼めよ。俺はもう頼んだ」

 ウェイトレスが水を運んできたのを見て、流は言う。冷えきった手をこすりながら座り、ホットコーヒーを注文すると、淳は、水を一息に飲み干した。しばらく雨が降らず、空気が乾燥しているので、喉がやたら渇くのである。

 5分ほど当たり障りのない会話をし、それぞれに注文したものが持ってこられると、流が口火を切った。

「氷川雪乃。信用しないほうがいい」

「何を──」

 淳は笑い飛ばそうとしたが、それは中途半端に終わった。一方、見返す流はいたって真面目な顔をしている。

「どんな理由でそんな事を?」

 もっともな質問である。流は頷き、事実と推測とで織り上げた話をし始めた。

「雪乃だけじゃない、宿主全員──つまりお前もだろうな──に言えるんだが、最近、何故か精神を病みはじめる奴が多い」

 無音無風の爆弾が炸裂した。淳の顔から、徐々に血の気が引いてくる。

「藤崎慶がいい例だ。あいつは躁鬱病の果てに死んだ……そうだな? つまり、あいつも精神を病んでいたわけだ」

 機械的に淳は頷く。話は聞いているが、心ここにあらずといった感じだ。

「俺は、俺は……」

 ようやく押し出した言葉は、だが、続かない。真っ青な顔で、喉元に手のひらを押し当て、まるで見えない何かに怯えているようだ。──そう、事実、怯えているのだろう。『恐怖』という名の見えざる敵に。

「悪いけど、俺にはお前がイカれてるかどうかなんて解らねえよ。──で、雪乃だ。あいつはどうやら、精神のたがが外れちまってるみたいだぜ」

 言いながら、流は上着の内ポケットから何枚かの写真を取り出し、テーブルに並べる。写真のそれぞれに、違う容姿の男女が一人ずつ写っている。共通するのは、それらが全部死体であることだった。ある者は頭を砕かれ、ある者は心臓をえぐり出され、あるものはバラバラに切り刻まれ……およそまともな状態ではなかった。

 淳は写真を手に取り、一枚ずつ眺めていたが、ふと眉間にしわを寄せた。

「……この傷跡、普通じゃないような……」

 その通り、と流は頷く。警察もこの殺人事件を追っているが、凶器の特定がほぼ不可能なのだという。何か道具を使ったのではなく、力任せに引き裂かれたような傷口なのだ。

「で、雪乃の特殊能力は何だったか覚えてるか?」

「筋力と戦闘能力の向上……」

 語尾は小さく消えてしまった。重苦しい沈黙が降りてくる。

 以前、淳は、雪乃がその能力を開放して闘っているのを見たことがある。その時、雪乃は、素手で相手の身体を引き裂いていた。相手の鋭い悲鳴と、肉が千切られ筋が切れ、骨の砕ける音がしばらく耳に残って離れなかったくらいだ。鬼神のような強さに、感嘆し、恐怖もしたものだ。

「運よく死神から逃れた奴もいるぜ。──片腕失くしちまってるけどな。曰く、『気違いじみた瞳の女にやられた』だと。素手で腕をちぎられたと──医者は信じてなかったみたいだけどな。雪乃の写真を見せたら、一も二もなく『こいつだ』って頷いたぜ」

 青を通り越し、白っぽくなった顔で、淳は視線を彷徨わせている。

「解ったか? 雪乃はもう、お前の知っている雪乃じゃない。せいぜい気をつけるこった」

 そう言い残すと、写真を内ポケットに収め、伝票を手に流は立ち上がった。レジで支払いをしながら、肩越しに振り向くと、淳がテーブルに肘をつき、顔を覆ってうつむいていた。流は、同情と哀れみと、そしていくらかの羨みの混ざった視線を淳に投げ、軽くため息をつく。釣りを受け取り、そのまま振り返らずに店を出た。

 ──流は確かに羨ましかったのだ。ああまでも誰かに想われている雪乃が。

 外に出ると、冷たく乾いた風が吹きつけ、身体から暖かさを奪ってゆく。わずかに目を細め、流は、未練があるかのように立ち止まるが、再び歩きだす。

 ……と、何かを思い出したのか、足を止めた。

「夕食までに帰れって言ってたな……」

 回れ右をして、逆方向へ歩きだす。何故か、兄のいつもの暖かい笑顔が、ひどく恋しかった。雪乃に対して、自分でも気づかない心の奥で嫉妬しながら、流は兄の元へと急いだ。

 

 時計の針は午前3時を指している。いまだ眠りにつくことは出来ない。暗い天井に、雪乃の笑顔が浮かんでは弾けて消える。波立つ感情は、容易に静まりそうにはなかった。

「雪乃……お前は一体何者なんだ?」

 質問には誰も答えてくれそうにない。ただ、静寂だけが辺りを満たしていた。今は、その静けさすらカンに障る。寝返りをうち、枕に顔をうずめ、拳を叩きつける。

「一体どうしろって言うんだよ……」

 力ない呟きは、闇へと溶けて消えた。


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