第一章 彼女の仕事

 

 

「君は私に死ねというのか!」

 取り乱した男の声と椅子の倒れる音が続き、あまり広くない店の中は水を打ったように静まり返った。店中の客に注目されているのに気がついた男は、ややあって椅子を起こし座った。それを合図に店内は再びざわめきはじめた。

「君は私に死ねというのか?そんな金額用意出来るはずが……」

 向かいに座っていた女は、男が繰り返すのを右手をあげて遮り、口を開いた。

「あなたが生きるか死ぬかなんて、私の知った事じゃないわ。規定の料金を払えば依頼は受ける。払えないなら依頼は受けない。それだけの事よ」

「な、な………」

 男は目を見開いて喘いだ。貴様は悪魔か、とでもいいたげな視線で女を凝視する。

「そう、払えないというのね。それなら、これ以上私がここにいる必要はないわ。自分でどうにかするのね」

 女はそう告げると立ち上がり、伝票をとった。男は頭を抱え込んで、机に突っ伏したまま動かない。女は男に一瞥をくれると、レジで金を払って店を出た。

「やれやれ、ね」

 低く呟き、歩き始める。3月の風はまだ冷たく、女は慌ててコートの襟をあわせた。歩き続ける彼女の心には、やるせなさと腑甲斐無さが入れ替わり浮かんでは弾けていた。──彼女の名は氷川雪乃。氷に雪とは、また冗談の様な名前だが、本名である。女性というよりも少女に近い年齢で、整った顔立ちをしている。流れるような黒髪と、強い意志の光をたたえる瞳が印象的だ。

 そして、先程の男との会話にもつながるのだが──雪乃は「始末屋」をしている。その名の通り、ありとあらゆる物を「始末」する職業である。浮気の証拠、借金の証文、脱税の裏帳簿、果ては人間までも。男は「ヤクザにした借金の証文を始末して欲しい」との依頼を持ってきたのだが、依頼料を払えるほどの財力がなく、雪乃はあっさり見切りをつけたのだった。こういうと「冷血」だの「人でなし」だのと騒ぎ立てる輩がいるが、大体、結末が見えているのにヤクザに借金する方が悪いのだ。──始末屋は、金さえ払えばなんでも始末する。反対に、払える金がないのなら、それは依頼云々以前の問題なのだ。非合法的な事をやらされる以上、それなりの見返りは必要不可欠なのである──雪乃の唯一の仲間ならそう言うだろう。それでも、雪乃は、理性で解っていても、感情で納得出来ないのだ。そう、出来る事なら助けてやりたい。雪乃の力を持ってすれば、借金の証文など容易く始末出来る。しかしそうはいかないのだ。ボランティアで始末屋をしていたら、依頼も危険も増える一方だ。その結果、自分が命を落とす事になっては目も当てられない。だから雪乃は、彼のような人達を見捨てるしか ないのだ。

 どうしようもない苛立ちを抱えて、雪乃は仲間の元へと急いだ。裏通りへ入ると、ひとかけらの迷いも見せずに歩き出す。ふと雪乃は人の気配を感じ、細い側道へと視線を投げ、暗闇に目を凝らした。

「よお、始末屋」

 雪乃の視線の先に立っている少年は、ビルの壁にもたれて笑っていた。不良っぽい格好をしてはいるが、雪乃を見る目に悪意はなかった。

「久しぶりだな。俺の事覚えてるか?」

「淳……だっけ」

 淳と呼ばれた少年は、嬉しそうに微笑む。意外に幼い表情を見せられ、雪乃は戸惑った。

「呑みに行かねえか?」

 頬をわずかに赤く染め、視線をそらしながら短く言った。何の事はない、淳は雪乃に惚れているようである。雪乃は、自分が裏の世界に生きる人種だと解っているのに、淳が誘ってくれた事が嬉しかった。しかし、内心の嬉しさとは裏腹に、雪乃の口から出てきたのは謝罪の言葉だった。

「悪いけど……」

 その一言で淳は察したが、失望の表情を隠して笑った。

「そうだよな。ここんとこ不景気でいい仕事がないんだろ? だったら仕方ないよな」

 淳の優しさを暖かく思い、雪乃は微笑んだ。それじゃあ、と短く別れの挨拶を交わし、逆方向へ歩き出す。それぞれが三十歩ほど歩みを進めた時、突然に事は起こった。何か重い物が倒れる音がし、雪乃は足を止めた。半瞬でそれが人の倒れた音だと気付き、身体ごと振り向く。雪乃の瞳に映ったのは、道路に突っ伏した淳の姿だった。身体の下に赤い水たまりが広がっている。淳の身体の向こうには、黒ずくめの人の姿が見えた。やはり黒い帽子を目深にかぶっていて、唇の紅がひときわ目についた。右手には紅く濡れたナイフを持っている。

 決断は早かった。一瞬で相手の胸元に入り込み、強烈な当て身を食らわせる。相手も油断はしていなかったはずだが、雪乃の反応が予想以上に早かったので、避けられなかったのだろう。そのまま後ろに吹っ飛び、二転三転して跳ね起きる。

「残念……」

 薄い笑いを浮かべ、そう呟くと、身を翻して駆け出した。雪乃はそれ以上追わずに、半ば慌てて淳へと走りよる。抱き起こすと、わずかだが胸が上下している。雪乃は淳のTシャツを裂き、止血をすると、背中におぶって駆け出した。裏通りを疾走し、仲間の住むマンションへと向かう。全速力で10分ほど走り続け、目的地へと着いた。インターロックを開けるのももどかしく、エレベーターへ飛び込む。目的の階に着いて、扉が開くと同時に駆け出し、彼の元へと急ぐ。

「私よ、雪乃よ。開けて!」

 インターホンに出た相手の声も聞かずに叫ぶ。ややあってドアは内側から開き、血の気のない顔をした二人を招き入れた。

 


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